墓というものごと
兄から近所の墓地の永代使用権が当たったから、墓を建てたいという相談がありました。祖父が生まれ育った岩国市の錦帯橋の近くには、昔ながらのしぶい代々の墓があるのですが、遠いことで小姑からの圧力を感じている母親から懇願されるうち、墓石屋に発注する手筈も整ったとのことでした。
少子化や後継者のいない家もあるし、だれもが一生ひとところにとどまって生活する時代ではないのに、墓守の風習がいつまでも続けられるとは思えません。狭い国土を墓とゴルフ場で埋め尽くすこともあるまいし、欧米の映画でみるような心温まる散骨への憧憬もあり。
墓石や墓地の宣伝広告には、まるで建売チラシのような胡散臭さしか感じることができず、好きにしてもいいけれど、自分はおそらくそこに骨を埋める気になれないことを伝えました。
かなり以前のことですが、自分が子供の頃、家族で訪れたときと同じ年頃になった息子を連れて、岩国の墓をお参りしたことがあります。広島で原爆資料館やドームを見せ、厳島神社、弥山といった瀬戸内ならではの土地を巡りながら、牡蠣を食べ、岩国寿司を食べ、錦帯橋のたもとに転がる石を拾って帰り、自宅の前庭の玉砂利に混ぜました。
お墓があるわけではありませんが、東大寺や法隆寺にいけば、大昔から何度訪れても、まったく変わらない風景の中で、鹿に噛まれた思い出や、小説の場面を語りながら、昔と同じ構図で写真を撮ってみます。
旅をするときに最もはっとさせられることのひとつは、若い頃に訪れて感動した場所を、30年ぶりに訪れても、なんら変わることなく、美しい建築や荘厳な風景が佇んでいることを確認した時じゃあないでしょうか。それらを世代を超えて誰かに伝えられることに、代え難いよろこびがあります。
自分がお墓に求めるものは何なんだろうか。
それは、お参りのし易さとか頻度ではなく、もちろん、墓石の大きさや広さでもない。おそらく、幼少期に体験した美しさや長閑で心地よい空間の記憶を呼び起こしてくれる装置として、ゆかりの地がいつまでも変わらずにあるという確かな感覚なのかもしれません。
後日兄から、買うのはもうしばらく待ってみようと言われたので、岩国の墓参りにいくことを薦めました。